私がBL漫画を初めて読んだのは2017年。正確な数は把握できていないが、それから数千冊読み、時代によって主流の絵柄や設定があることを少なからず感じ取っている。もちろん時代によって変化するのはBLに限った話ではないが、BL特有の事情を垣間見る興味深い話を松浦大悟氏のツイートに見た。
個々の作品は時代が反映され、異なる魅力や見どころがあるが、それがどのような変遷を経てその形として描き出されることになったのか、現在の地点から少し理解できた気がしてBL新参の私は刺激を受けた。
ゲイ同士の恋愛は、もはやロマン主義的不可能性を描けない
松浦大悟氏は、原作がBL漫画である映画『窮鼠はチーズの夢を見る』に対し、以下の感想を持つ。
(実際のツイートは下に貼付)
行定勲監督作『窮鼠はチーズの夢を見る』はノンケ男子がゲイと恋に落ちるという内容。『おっさんずラブ』を始め、ある日突然ノンケが男とセックス出来る様に変身してしまう作品は多い。確かに「ノンケ喰い」という分野は存在し、性の自明性を撹乱する目的はあるのだろうが、私は別の感想を持つ。
松浦大悟 Twitter
つまり、最早ゲイ同士を舞台とした恋愛は日常であり、ロマン主義的不可能性を描けなくなっているのだ。障害を乗り越えて成就する物語を制作しようとすれば、作り手は異性愛者が同性愛者と結ばれる話を選択せざるを得ない。だがむしろその方がマジョリティに切実さをもたらす効果はあると思う。
私たちの世代は「ノンケに恋をしても不幸になるだけ」と言われた。しかし今は、自分がタイプのノンケ男性を口説き落としたという話はザラに聞く。ウリ専にもお小遣い稼ぎのノンケ学生がたくさん所属している。おそらく異性愛者と同性愛者の恋愛ドラマも数年後には陳腐化することは間違いない。
ゲイ同士の恋愛を描く物語は既に日常となり、『窮鼠はチーズの夢を見る』などのノンケとゲイの恋愛すらも数年後には陳腐化すると言う。そしてそれは、実際のゲイの世界の状況ともリンクしているようだ。
思えば、中村中さんが叶わぬ恋を歌った『友達の詩』がヒットしたのが2006年で今から14年前。当時、当事者でない私でも切なく心に響いたことを覚えているし現在も変わらず名曲だと思うが、今発表されてヒットするかというとそれはまた別の話なのかもしれない。
私がBL漫画と出会って間もなく、オメガバースという人気の設定があることを知った。オメガバースを少し説明すると、基本的な設定として、男女それぞれに先天性の「アルファ」「ベータ」「オメガ」という性別がある。「オメガ」は男女とも妊娠可能で、定期的に相手を発情させるフェロモンを発する。フェロモンは相手を魅了し発情を促すため、愛情に関係なく性交に及んでしまうことがある。
商業BLにオメガバースが登場したのが2015年。アンソロジー『オメガバース プロジェクト』や『b-boyオメガバース』が発刊されたのが2016年。オメガバース的な設定は以前から存在したが、現在のような高い人気を得てメジャーになったのはそれほど古い話ではない。これも時代背景の変化を物語る一つの現象なのかもしれない。
オメガバースにも色々あるため一概には言えないのだが、誤解を恐れずに書くと、初めて読んだ時の私は「SEXに至る以前の相手との逡巡や苦悩、障害を乗り越える姿こそが見たいのに、そこを省いてあっさり発情してはSEXするなんてつまんない」などと思ったものだ。しかし同性同士の苦悩表現など、ポリコレ以前にとっくに古かったのだ。
むしろオメガバースだからこそ設定の自由度も高く、松浦大悟氏が指摘した、今後物語として陳腐化するというゲイ同士、あるいはゲイ・ノンケの恋愛では描けないロマン主義的不可能性を表現することもできる。実際そのような作品が増えてきたようにも思う。
『バイバイ、ヴァンプ!』は社会状況を反映している
一方、映画『バイバイ、ヴァンプ!』に対する松浦大悟氏の意見はこうだ。
いま話題になっている映画『バイバイ、ヴァンプ!』は、こうした社会状況をよく反映している。異性愛者の領域が侵食され、いずれ自分も変わってしまうかもしれないという無意識の恐怖が通奏低音として流れている。
「俺たちの恋愛の自由を守るんだ」というセリフはそういう意味。
松浦大悟 Twitter
もはや異性愛者と同性愛者を描く恋愛は珍しくないという時代背景を前提として、『バイバイ、ヴァンプ!』では「異性愛者の恋愛が浸食されるかもしれない」という世界が描かれる。この映画は、同性愛を差別的に描いているとして多くの批判を浴びたが、社会状況を反映しているという視点で考えると面白いし納得もできる。
ここまでの内容は、下のスレッドでツイートされている。
BLはゲイ差別か?
BLはゲイ差別か?と聞かれたとき、わたしは胸を張って「差別ではない」と言うことはできない。もちろん受け手として差別する気など微塵もなく、むしろBL読者には同性愛者を応援する人のほうが多いのではないかとさえ思う。
今の私は、半端じゃない熱量で日々BLに親しんでいるが、異なる立場で想像する視点を忘れてはならないとも思っている。幼い頃、女性に対する表現において不快になった記憶を思い出すと、BLに似た気持ちを抱く人がいても不思議はない。とはいえ、私自身は創作物に対し安易に「差別」などと言ったり排除する気はないしポリコレの主張を深く学んだこともないが、単純な感覚として、異なる意見があることも念頭に置いておきたいのだ。
しかし松浦大悟氏は、BLにゲイ差別は関係ないと言い切っている。
先日、昔のBLは拉致・監禁・レイプなどゲイへの差別的な作品が多かったという記事を読んだが、本当にそれは差別だったのか?
松浦大悟 Twitter
そもそもBLは、男女の恋愛物語ではジェンダーによる権力関係が頭をよぎり不快感で享受困難になる女性たちが、男女を男男に置き換えて描いたのが始まりだと私は思っている。
つまり男が男をレイプするシーンはゲイを蔑んでいるのではなく、ジェンダーがイコールな男と男によるセックスを読者である女性が第三者の視点(安全圏)から愛でるという構図になっているのだ。そこでは現実のゲイ差別は一切関係ない。
一応気を付けておきたいのは、BLに「差別はない」ではなく、「ゲイ差別はない」と言っているんだよね。それと、BLを「安全圏から愛でる」という女性の視点を理解した上での発言でもある。
なんという理解者……論点がここなら、実感として私も賛同できる。
BLにおける男同士のレイプ表現は、男性嫌悪が無意識に表出している
その一方、BLのレイプ表現には “ノンケ男性に対する復讐心” が内在しているという。
そして、彼女たちは絶対に口を割らないけれども、男同士のレイプ表現はノンケ男性への復讐心の現れ、男性嫌悪の現れが無意識に表出しているものだと私は感じる。この場合の嫌悪感情はゲイに向いているのではなく、ノンケ男性に向いている。フェミニストやLGBT活動家が考えるより社会はもっと複雑だ。
松浦大悟 Twitter
これについては人によって様々な感想を抱くことだろう。松浦大悟氏が指摘するように、「ゲイ同士や、ゲイ・ノンケの恋愛物語は珍しくない」という時代の影響を受けてか、現在はキラキラ甘々作品が人気の王道だし、作品も読者もカラッとしたものである。読者はまるで、人気タレントを応援するようなノリでキャラクターを愛している。男性嫌悪と言われても「はて?」という腐女子は多いのではないか。
しかし同時に、深層心理に男性嫌悪を持つ場合の存在も否定しない。なぜわざわざBLを選ぶのか。その点には様々な理由があり、本人に意識されていない場合もあるだろう。よく言われるように、男性からの性衝動や腕力の差に対する恐れの代替として機能しているとか、女性に対する嫉妬や嫌悪が存在している可能性もある。
あるいはもっと単純に、性的嗜好で読んでいる人も少なくないだろう。男・男の安全圏から、受け目線あるいは攻め目線で自分に置き換えて楽しむ人だって多いはず。ここにもゲイ差別はない。
仮にBLを読むことにおいて何らかの嫌悪感情があったとしても、それがゲイに向いているという感覚は、自分の中には感じ取れない。個人的に接してきた腐女子達を見た範囲においても同様で、ただひたすら作品やキャラクターを愛でており、差別的な話題に接したこともない。
ただし、当事者が「差別ではない」と言うことと読者が「差別していない」と言うのは全く違うことだということ。というよりもむしろ、真面目に差別か否かを論じるとすれば、腐女子の意見は関係ないんだろうな。
……なんて、私の割には小難しいこと書いちゃったけど、私は一部のフェミやLGBT活動家の意見は全く理解できないアホな腐女子。このへんにしておこう。
ところで、松浦大悟氏は勉強家で様々な本や作品の感想をツイートされることがある。意見は様々だとしても、これまで深く考えることがなかった分野について視野を広げるきっかけを与えられることも少なくない。感謝。